ブルックナーは1824年9月4日にオルガン奏者を父としてオーストリアのアンスフェルデンで生まれる。
ジーモン・ゼヒターに和声法と対位法を、オットー・キッツラーに管弦楽法を学ぶ。
1863年ごろからR・ワーグナーに傾倒、研究するようになる。
同年へ単調交響曲完成。
1866年、ウィーンで聴いたベートーヴェンの交響曲第9番に強い影響を受ける。
同年交響曲第1番ハ短調完成
1868年には、ゼヒターの後任としてウィーン音楽大学の教授に就任。
1869年交響曲第0番完成。
1872年交響曲第2番ハ短調完成。
1873年にワーグナーと会見する機会を得る。
この際にワーグナーに交響曲第3番ニ短調を献呈。
しかしこの行動は反ワーグナー派の批評家エドゥアルト・ハンスリックから敵対視され、執拗な批判を浴びせられ続けることになる。
1874年交響曲第4番変ホ長調完成。
1876年交響曲第5番変ロ長調を作曲。
同年第1回バイロイト音楽祭に出席、ニーベルングの指環の初演を聴く。
このときに今までの自らの作品を大幅に改訂することを決意し、いわゆる第1次改訂の波が起こる。
このときに交響曲第1〜5番全てが大幅な改訂を受ける。
その頃、若きマーラーがウィーン大学でブルックナーの聴講に訪れている。
1881年交響曲第6番イ長調。
1883年交響曲第7番ホ長調。
1884年からは交響曲第8番ハ短調の作曲に従事する。
1887年に一旦完成し、「芸術上の父」と尊敬していた指揮者ヘルマン・レーヴィに見せるが、彼からは否定的な返事が返ってくる。
弟子達もこの作品を理解できず、ブルックナーは激しく落胆し再び自らの作品を改訂する。
いわゆる第2次改訂の波である。
これにより交響曲1,2,3,4,8番が改訂される。
1896年10月11日、交響曲第9番ニ短調を未完で残し、ブルックナーはウィーンで72年の生涯を閉じる。
